musashino ni sakuhana ootadokan no shogai Japanese Edition eBook Takemura isao PDFリーダー musashino%20ni%20sakuhana%20ootadokan%20no%20shogai%20Japanese%20Edition%20eBook%20Takemura%20isao
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太田道灌は子供の頃、少し才気ばしったところがあった。その根底にある能力を見た管領上杉憲実は、再興したばかりの足利の学問所に入れて、しっかり学問を身に着けさせることにした。五年後、学問を修めて鎌倉に帰った時、憲実の姿はなく、復活した鎌倉公方足利成氏と、幼なじみの上杉憲忠が管領として政事を行っていた。世情は不安定な要素があり、道灌は暫らくの間建長寺に籠って様子を見ていたが、鎌倉を離れられない父道真の名代として京都に上った。京都では憲実と親しく、主家扇谷上杉とも縁の深い今川範忠に会い、それがきっかけで将軍義政に知己を得、また飛鳥井雅親に師事して和歌を学んだ。
そうこうしているとき、鎌倉から急使が来て、憲忠が成氏に暗殺され、再び戦乱がはじまったという報告が届いた。応仁の乱よりも早く、関東は混乱の世に突入したのである。関東に戻るにあたって、範忠から品川湊の鈴木道胤に会うよう勧められた。この道胤との出会いが、江戸城を築城し、そこを拠点として道灌が大きく成長する契機になった。
上杉への恨み・辛みでかたまった成氏は、下総の古河を拠点として上杉方と敵対した。道灌は、下総・上総と豊島氏の間を断つ形で江戸・岩槻・川越に白を築いた。そして兵法に従い、少数で大軍を撃破する足軽戦法を駆使し、難敵の豊島氏・千葉氏を封じ込んだ。
道灌が戦いに明け暮れている時、将軍義政に招かれた範忠が京都で疫病にかかり、それが原因で病没した。まさに精神的支柱を失う程の打撃であったが、道胤ら商人の全面的な協力がそれを補った。
義政が将軍職を退くにあたって、道灌は京都に招かれた。その折、関東の武士では初めて御門に拝謁する機会を得た。義政や雅親の引立てがあったのだ。そして、最後には御門から、道灌は「まさに武蔵野に咲く花である」とお褒めの歌を賜ったのである。その噂は、関東にもすぐ広まった。そうなると、陰では名声を羨み、妬む声が広まった。
関東に変えると、管領上杉家で家宰長尾家の継嗣問題が起こり、本家の嫡子長尾景春が上杉に反目し、道灌の仲裁を仰いだ。
そんな時、しばらくなりを潜めていた成氏が再び動き出した。成氏は形勢を逆転するため、古河から伊豆堀越の政知を撃つべく出撃したが、道灌の策略に会って三島で大敗して古河に戻った。ところが、そんな成氏にとって運がいいことに、不満を募らせていた景春がいつでも成氏側に走る姿勢を示したので、成氏は再び勢いを回復した。
景春の問題が長引く中、駿河の今川家でも継嗣問題が起きた。伊勢新九郎長氏が絡んでいたのである。堀越公方政知の依頼があり、上杉と縁戚関係があるばかりでなく、範忠への恩義に報いるべく、道灌は駿河に行って何とか長氏を納得させて継嗣問題をかたずけた。そして、返るとすぐ景春の籠る鉢形城を訪ね、あらためて景春を説得したが全く聞く耳を持たず、ついに成氏と共同戦線を張って対抗した。そのため、再び戦は関東各地に広まり、道灌はそれこそ東奔西走して成氏方を抑え込んで行った。
道灌に押され続ける成氏は、陰で和睦を模索し、細川政元を介して義政に申し出た。義政は引退したとはいえ、実質的に権力を掌握していたのである。また、成氏は越後の上杉房定にも和議を申し出たので、房定は道灌を義政のもとに送った。義政は成氏を信用していなかったが、道灌と房定のたっての願いであったので認めることにした。
関東に戻ると、成氏側がなりを潜めている間に、道灌は江戸城の改修・増築にとりかかった。道灌の名声は世に広がり江戸城には活気がみなぎったが、一方で道灌が目立つことで影が薄くなった山ノ内・扇谷の両上杉家やその一党は不愉快になった。そんな隙間風にのって、道灌を讒訴する声が広がってきたのである。疑心暗鬼に陥った上杉氏は、道灌の功績を正しく評価できなくなり、不信感を募らせていった。
江戸城の長期間にわたる改築・増強、管領顕定や主君定正に代わって国人らに指示を出す本意がどこにあるのか、そして関東ばかりでなく都でも高まる評価の裏に何が隠されているのか。また道灌が朝廷や幕府との話の内容を一切口外しないことなどが両上杉の不審と不安を増幅させた。その結果、定正は管領顕定と相談して、道灌の家宰職を解くことにした。道灌は過去の戦績をまとめて異心のないことを証明しようとしたが、それが逆効果となり定正の心は更に揺れることになった。そこに、定正に密着する曽我兵庫らの讒言がしのび入って、定正の心は道灌から離れてしまったのだ。
江戸城の改修公示が終わって、都人もうらやむほどの祝宴を行った。その後、主君定正との信頼関係は盤石であると信じ、長い間意思の疎通を図らないでいた道灌を心配する家臣のすすめに従い、定正に会うことにした。定正は祝宴に招かれていなかったのである。
相模の糟谷の屋敷を訪れたその日、道灌は湯殿にて無防備のところを槍で突かれた。
ここに、五十五歳の生涯を閉じたのである。
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そうこうしているとき、鎌倉から急使が来て、憲忠が成氏に暗殺され、再び戦乱がはじまったという報告が届いた。応仁の乱よりも早く、関東は混乱の世に突入したのである。関東に戻るにあたって、範忠から品川湊の鈴木道胤に会うよう勧められた。この道胤との出会いが、江戸城を築城し、そこを拠点として道灌が大きく成長する契機になった。
上杉への恨み・辛みでかたまった成氏は、下総の古河を拠点として上杉方と敵対した。道灌は、下総・上総と豊島氏の間を断つ形で江戸・岩槻・川越に白を築いた。そして兵法に従い、少数で大軍を撃破する足軽戦法を駆使し、難敵の豊島氏・千葉氏を封じ込んだ。
道灌が戦いに明け暮れている時、将軍義政に招かれた範忠が京都で疫病にかかり、それが原因で病没した。まさに精神的支柱を失う程の打撃であったが、道胤ら商人の全面的な協力がそれを補った。
義政が将軍職を退くにあたって、道灌は京都に招かれた。その折、関東の武士では初めて御門に拝謁する機会を得た。義政や雅親の引立てがあったのだ。そして、最後には御門から、道灌は「まさに武蔵野に咲く花である」とお褒めの歌を賜ったのである。その噂は、関東にもすぐ広まった。そうなると、陰では名声を羨み、妬む声が広まった。
関東に変えると、管領上杉家で家宰長尾家の継嗣問題が起こり、本家の嫡子長尾景春が上杉に反目し、道灌の仲裁を仰いだ。
そんな時、しばらくなりを潜めていた成氏が再び動き出した。成氏は形勢を逆転するため、古河から伊豆堀越の政知を撃つべく出撃したが、道灌の策略に会って三島で大敗して古河に戻った。ところが、そんな成氏にとって運がいいことに、不満を募らせていた景春がいつでも成氏側に走る姿勢を示したので、成氏は再び勢いを回復した。
景春の問題が長引く中、駿河の今川家でも継嗣問題が起きた。伊勢新九郎長氏が絡んでいたのである。堀越公方政知の依頼があり、上杉と縁戚関係があるばかりでなく、範忠への恩義に報いるべく、道灌は駿河に行って何とか長氏を納得させて継嗣問題をかたずけた。そして、返るとすぐ景春の籠る鉢形城を訪ね、あらためて景春を説得したが全く聞く耳を持たず、ついに成氏と共同戦線を張って対抗した。そのため、再び戦は関東各地に広まり、道灌はそれこそ東奔西走して成氏方を抑え込んで行った。
道灌に押され続ける成氏は、陰で和睦を模索し、細川政元を介して義政に申し出た。義政は引退したとはいえ、実質的に権力を掌握していたのである。また、成氏は越後の上杉房定にも和議を申し出たので、房定は道灌を義政のもとに送った。義政は成氏を信用していなかったが、道灌と房定のたっての願いであったので認めることにした。
関東に戻ると、成氏側がなりを潜めている間に、道灌は江戸城の改修・増築にとりかかった。道灌の名声は世に広がり江戸城には活気がみなぎったが、一方で道灌が目立つことで影が薄くなった山ノ内・扇谷の両上杉家やその一党は不愉快になった。そんな隙間風にのって、道灌を讒訴する声が広がってきたのである。疑心暗鬼に陥った上杉氏は、道灌の功績を正しく評価できなくなり、不信感を募らせていった。
江戸城の長期間にわたる改築・増強、管領顕定や主君定正に代わって国人らに指示を出す本意がどこにあるのか、そして関東ばかりでなく都でも高まる評価の裏に何が隠されているのか。また道灌が朝廷や幕府との話の内容を一切口外しないことなどが両上杉の不審と不安を増幅させた。その結果、定正は管領顕定と相談して、道灌の家宰職を解くことにした。道灌は過去の戦績をまとめて異心のないことを証明しようとしたが、それが逆効果となり定正の心は更に揺れることになった。そこに、定正に密着する曽我兵庫らの讒言がしのび入って、定正の心は道灌から離れてしまったのだ。
江戸城の改修公示が終わって、都人もうらやむほどの祝宴を行った。その後、主君定正との信頼関係は盤石であると信じ、長い間意思の疎通を図らないでいた道灌を心配する家臣のすすめに従い、定正に会うことにした。定正は祝宴に招かれていなかったのである。
相模の糟谷の屋敷を訪れたその日、道灌は湯殿にて無防備のところを槍で突かれた。
ここに、五十五歳の生涯を閉じたのである。
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